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February 26, 2005

国民総背番号は旧システムの名残

「週刊!木村剛」のブログで国民総背番号制について触れている。その中でも触れているが国民総背番号というネーミングがよくない。アメリカみたいに健康保険番号とか、目的を明確にして、納税者番号とか、いやいや番号という言葉がなんか順番にならべられるようでいやだ。納税者コード、健康保険ID、日本国コンピューターネームなんてのはどうだろう。

個人にユニークな番号を振っておけば、コンピュータを使えば簡単に名寄せできて、税金などごまかせなくなるということだと思います。しかしですね、コンピュータを専門にしている私の目から見たらいったい何年前のコンピュータを前提にしているのですかと言いたい。そりゃ40年くらいまえのコンピュータなら一人頭10桁くらいの番号にしておかないと日本国民全員のデータを記録することは大変だったでしょう。しかし、いまや個人のパソコンでも100GバイトのHDDなんて小さい方な時代ですよ。

ちょっと計算、1億人でこの100Gバイトのデータを分けたら1人頭どのくらいのデータになるでしょうか。100 x 10の9乗 ÷ 1 x 10の8乗 = 1000 です。つまり、日本の人口を1億3000万人として、130GバイトのHDDを内蔵したパソコンで1人頭1000文字のデータを記録できるのです。これはどういうことかというと、別に個別に番号など振らなくても1000文字程度の個人データを記憶しておけば個人のパソコンでも名寄せが簡単にできるということです。

実は、個人データを高値で取引されたり、いろんな付加価値をもった個人データを扱う名簿業者が流行るのは、このように個人ベースで日本人全部のデータを簡単に処理できるほどパソコンが発達したおかげだと私は思っています。すでにその方面で商売をしている民間の人達は国民総背番号なんてなくても、個人データを切り分けて整理して活用しているのです。昔の話にいつまでもとらわれて番号が必要だなんて考えは時代遅れです。

たとえば、税務署の書類には、名前と生年月日、それと生まれてからの所在地一覧なんかを付けさせれば、個人は完全に区別できるでしょう。それで住民台帳かなにかに同じフォーマットで同じデータを記録しておけば、うその情報を書いたらすぐに住民台帳からばれてしまうわけです。別に番号つけなくても必要項目のフォーマットさえ統一すればすぐにも国民総背番号を振ったのと同じことができるわけです。なぜそれをしないのか、私は必要を感じない人が多いからだと思うんですけどねえ。それとも、こんなことに気づいていない、いやそれはないでしょう。

実際にシステム化するなら、判別用データ(名前などです)からハッシュ関数を使って短い文字列を生成してそれを使って処理するので処理速度は背番号をつかったものとほとんど変わらないでしょう。ハッシュ関数で生成される文字列は、判別用データが変われば(たとえば引っ越したりすると)変わりますから背番号ではないと言い切れます。しかし、動的ではありますが、日本国民全員にユニークな番号を付けたのと同じ効果があります。

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February 25, 2005

宇宙人探し

ここのところ、ライブドアとフジテレビの話がメディアを賑わしている。NHKの夜のニュースでトップ扱いだったのはちょっと驚いてしまった。あまり悪い事件がなかったと考えれば救いもあるが。結局どっちもどっちという感じの泥仕合になってきて、私的には面白みがなくなってきた。結局なにも変わらないで終わるような気がしてきたからだ。少しはメディア全体にいい方向に向かってくれたらよかったのだが、このあたりライブドアの堀江氏の手腕の限界なんだろうと感じる。

とうの堀江氏だが、ソフトの会社で成功をおさめてネット企業のライブドアを買収してネット企業になろうとしているようだが、まだよく分かっていないような印象だ。ネット企業として差別化するにはメディア進出が効果的という考えらしいが、本当かな〜あというのが私の印象だ。狙われたメディア企業の方は、ある意味いい迷惑だと思う。しかし、上場されるような一流企業の経営者ともなれば、狙われるような隙を見せてはいけないということだろう。しかし、自分達の価値観と違う価値観で行動する人がいきなり挑戦してくると受けてたつ方も大変だ。彼はまるで宇宙人だ、のような言い方をされることもある。自分達といろんな意味で大きく違う人をよく宇宙人と呼ぶ。実際堀江氏の今回の行動は、そんな目で見られているように感じる。

やっと今日の話題だ。実際に知性をもった宇宙人と交信したら、彼らが宇宙人であることをいやというほど思い知ることになるだろう。きっと地球人とは考え方も、感覚もぜんぜん違うだろうから。でも、いるなら話してみたいと考える人は多い。特にアメリカ人に多いようで、学問的なまじめな宇宙人探しの多くはアメリカで行われている。

日本でもわずかだが研究者はいるようだ。ここに紹介がある。宇宙人探しのことを「SETI」と呼ぶ。パソコンでアレシボの電波望遠鏡で捕らえたデータを解析して宇宙人探しを全世界の人に手伝ってもらおうというSETI@home をご存知の人もいるだろう。この活動は今も続いている。私も一時期行っていた。もし自分のパソコンで宇宙人のものと思われる信号を見つけたら歴史に名前が残るだろうなどと妄想をいだいたものだ。

もし、学問的に認められる形で知性がある宇宙人が発見されたら、大きなニュースになるばかりではなく、多くの人の考え方まで変えてしまう可能性がある。堀江氏のことを宇宙人だなんてきっと言わなくなるだろう。少しは異質なものを受け入れられるようになるだろうし、地球人としての共通意識も今以上に強くなると期待できる。でも、予想できない事態の方がいろいろ起こるだろうなあ。

知的宇宙人が居そうな星が見つかったらそこに向けて信号を発信する連中は必ずいるだろう。しかし、日本のSETIの草分けである寿岳先生によると、知性を持つ宇宙人の存在が発見されても、そのままの状態が長くつづくだろうとのことだ。つまり、存在はわかったが、それだけということ。交信するなどのコンタクトをとることが成功するのは困難ということらしい。まあ、時間をかければ何とかなるような気がするが、どちらかというと希望的な見方だろう。

宇宙人探しなどというと、胡散臭い感じもするが、まともな学問として存在する。もし見つかれば地球人類の研究にも役に立つだろう。一見突拍子もないよう行動でも、それなりに意味がある場合が多いから、かれは宇宙人見たいなどと拒絶せず、同じ地球人なのだという目で行動の背景を考えてみると、案外受け入れられる理由がみつかるようなきがする。いろんな人と付き合うときには心がけたいものだ。

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February 17, 2005

メディア企業の勘違い

「週刊!木村剛」でライブドアvsフジテレビについて触れている。この話題旧来のメディア、特にテレビでは大騒ぎしている。まあ、テレビ局にとっては明日はわが身になりかねないことなので関心は高いのでしょう。
ライブドアの堀江社長もテレビに出まくって自説を説明している。そこまでするのは劣勢だからではと私などはうがった見方をしてしまうが、本当のところはどうなんだろう。

木村氏は堀江社長の行動によって保護されてきたメディア界が変わることを期待しているように見受けられる。確かに痛い目にあったことで改善される可能性はあるだろう。私が気になったのは木村氏は専門家だと思うのだが、ライブドアの資金調達方法に関する意見を述べていないことだ。私としては聞いてみたいところだ。ネット上のいろいろなブログや日記などを見ていると、ライブドアによる800億円の資金調達方法はライブドア株主にとってはあまりよいことではないようだ。
私の見たテレビ番組のなかで堀江社長はニッポン放送の取締役会の態度が株主のことを考えていないと批判していたが、自分はどう思っているのか興味深いところだ。

今回の件は以前より聞いていたメディアの人達の大きな勘違いというものに原因の一つがあると私は思っている。出版社などが代表なのだが今回のことでテレビ局も同類と分かった。それは「社会に対する影響力が自分達は大きいので、企業としても大きいと勘違いしている。」というものだ。

日本のメーカーにしても銀行にしても企業規模を出版社やテレビ局と比較するとぜんぜん違う。しかし、社会に対する影響力となると会社の規模でも資本力でもすこぶる小さいメディアの方が大きい。ここに大きな勘違い生まれるわけで、「自分達は日本を代表する大企業と同等」と思ってしまっているのではないか。

そこに堀江社長が資本という基準を示してくれたことで、実は自分達は中小企業の規模の企業だったと気づくいい機会だったと思う。ただ気がかりなのは堀江社長自身がメディア企業と同じ勘違いをしている可能性が否定できないことだ。まあ、ライブドアが尊い犠牲となっても日本のメディアがよくなれば私としては喜ばしいので、よしとするけどね。

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February 16, 2005

ネット発の書籍

このブログの最初に今ブログで起こっていることはパソコン通信の時代の会議室と本質的変わらないと書いた。しかし、パソコン通信の時代には聞かなかったことが起きている。それは書籍化だ。私が知らないだけの可能性もあるのだが、パソコン通信の会議室の内容が書籍になったという話は聞いたことがない。

ところが、昨年の電車男の本がベストセラーとなると二匹目のドジョウを狙ってネット上の書き込みを書籍化する話が雨後のタケノコのごとくいっぱい出てきている。多くは2チャンネルに代表されるような掲示板のもので不特定多数が書きこみをしているもののようだ。
実はWebページの内容を書籍にしたものは今までも沢山あった。私も何冊か持っている。まあ私が持っているのはWebで無料で読ませていただいたお礼の気持ちで購入したものだ。そして、誰か個人のWebページの内容を書籍にしたものばかりだ。つまり単独または少数の著者によるものになっている。Webページの文章を読んでエッセイの連載の話が来たなどという話も聞いたことがある。同様にブログが書籍化したという話は聞いていないがもうあるか、出てくるのも時間の問題だろう。ブログ自体が良質な書き手の供給源になる可能性は十分にあるだろう。

ところが電車男以降の最近の書籍化の傾向は不特定多数の書きこみを書籍にまとめる形だ。まあ、最初に売れたものの真似をするという安易な姿勢なのだろうが、そればっかというのも日本の出版業界は情けないといわれてもしかたがないだろう。

それで、2チャンネルみたいにいろいろこだわりの多い人がいるところでは自分の文章を勝手に書籍にするな、という人が出てきてひともんちゃく起きるわけだ。すでに全世界に公開した文章なのだからより多くの人に読まれてこまることもないだろう。私が思うに自分の書いたものをネタに金儲けをされることが気に入らないのだろう。
そんな気持ちはわからないではない。多くの掲示板では著作権を管理する側にゆだねるような契約で書き込みを許可しているようだ。つまり書きこみは管理者側が自由に使っていいらしい。誰か裁判して法的にはっきりさせてくれると有難いが、手間がかかるから難しいだろうなあ。

でも、その気になれば回避策はある。まずレンタルサーバなど借りて個人のWebページなり掲示板なりを作って、先にそこに発言する。それを引用した形で掲示板に書き込めばいい。引用なので少なくとも勝手に改変できないという著作人格権は保証されるはずだ。まあ、そこまでして書籍になるのを抵抗するぐらいなら初めから書き込まなければいいと私個人は思うのだが。

さて、どのかの名物ブログが書籍化されてベストセラーとなる日はくるのだろうか。

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February 08, 2005

ブログの力

まだここでブログを書き始めて半月ほどだ。ところがちょっとGoogleで「半日庵」を検索してみたら、すでにこのブログがトップにきているではないか。始めたことをどこかに告知したわけでもないのにだ。
半日庵という言葉はあんまり一般に出てくる言葉ではない。もともとはお茶の関連からの言葉だということだ。ニフティのハンドルにしてからかなりの年月が経つせいか、Googleで検索をかけるとヒットするのはほとんど私の関連のものになっている。それでずっと私のWebページがトップだったのだが、始めてわずか半月あまりでブログがそれを抜いてしまったわけだ。最初に感じたのはブログって浸透力というか広く知らしめるのに大きな力をもっているのだということだ。

いままでのWebページなら検索サイトに登録とかして広く知ってもらうことにそれなりの努力と時間が必要だったと思う。しかし、ブログだと、そんな努力も必要なく広まってしまうようだ。確かにココログは新着記事の紹介などいろいろと読まれるための仕掛けを用意してくれているのでその分有利なのだろう。しかし、それ以外にトラックバックのシステムがGoogleでの検索結果に大きく影響していると思う。いままでなら自分のWebページにリンクを張ってもらうのにはそこにお願いしたりする必要があった。もちろん内容を気に入ってもらって張ってくれることもある。ところがトラックバックを使うと、こちらからリンクを張ってもらうことができるのだ。有名ブログにリンクを張ってもらえばGoogleでの順位は上がるのだろう。

まあ、みな条件は同じだからブログで発信している限りは同じなのだが、従来のWebページでの日記などは検索にかかる比率は下がるだろうなあ。このまま行くとGoogleの評価基準を変えることになるんではないかと思ったりする。技術的にトラックバックと従来のリンクって区別できるのだろうか。できるなら早晩区別するようになるだろう。

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February 05, 2005

日本のアニメを繁栄させるには

「週刊!木村剛」で「宮崎監督のハウルの動く城」を話題にしている。興業収入がまたトップということで話題になるのは当然かな。個人的には原作とちょと違和感があり、前作の千と千尋の方が好みだ。私は宮崎作品はオリジナルな話の方が全般的にすきだ。
ちょっと話がずれた。このブログのなかで著者の神部氏は、日本のアニメは昔から国際競争力があったと述べている。確かに昔から日本のアニメは輸出されていた。しかし、それはそうしないとアニメ製作会社が食べていけないという事情によるところが大きい。
神部氏も話題にしている虫プロのジャングル大帝などは最初からアメリカでも放送させることを前提に作られたものだ。おかげで、話の順番が入れ代わってもいいように作るなど制作者側は苦労が多かったようだ。
それはともかく、国内の放送局への納入額が低く押さえられていたために別のところにも販売しないとやっていけなかったのだ。結果として国際競争力が付いたのだから、まあいいのかもしれない。しかし、現在もその状況は変わっていない。その結果生まれているのが良いアニメーターの不足だ。
現在においてもアニメーターの報酬は出来高制で、沢山描かなくては稼げない。ちょっと昔の言葉でいえば3K職場なわけだ。最近はそういう職業に才能ある人はつかない。Webデザインや、ゲームデザインに行ってしまうのだろう。その結果第二の宮崎監督になりそうな若手にとんとお目にかかれない。
宮崎監督がジブリを作ったのもアニメーターを給料制で雇うことで生活の安定を保証してアニメーターとしての修行に打ち込めるようにするためだと話していたのを聞いたことがある。

日本アニメを繁栄させるにはどうすればいいのだろうか。それには、もっと末端の現場の人が安心して仕事ができるように、才能ある若者がその仕事につきたいと思えるようにする必要があるんのではないか。

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硬貨偽造と自動販売機

偽札に続いて偽500円硬貨が大量に見つかった。偽札は家庭用のパソコンとカラープリンタで作ることができるが偽硬貨はそう簡単ではない。型を抜くためのプレス機が必要だ。その上今回の偽造硬貨は合金の成分が本物に近いらしい。そでATMをすり抜けたようだ。
今の500円硬貨は、しばらく前に大量の偽造硬貨が出回ったために新たに作られたものだ。その時の偽造硬貨は韓国の額面の低い硬貨を削ってつくったものだった。もちろんそんなもの人間が見れば偽物とすぐ分かる。自動販売機を狙ったものだった。韓国の硬貨が大きさと材質が当時の500円硬貨と同じだったためにその硬貨を削って重さを同じにすれば自動販売機をだませるので大量に出回ったわけだ。
その時に思ったのは、自動販売機を改良してそんな硬貨通用しないようにすればいいということだ。例えば画像処理の技術を使えば重さを調節するために表面が削られた硬貨などすぐに偽とわかる。ところが、当時造幣局は新しい硬貨に切り替える方を選んだ。画像処理などを自動販売機に取り入れるとコストがかかるので、自動販売機の業界に配慮したらしい。変わりに合金の成分を工夫して世界のどこにもない金属で作られた硬貨にしたのだ。そうすれば硬貨の電気抵抗を測るだけで判別できてコストがかからない。そんな話を当時聞いた記憶がある。

ところが今回その成分を真似かたちで偽造硬貨がでてきたわけで、当時の判断の甘さ問われるところだろう。あの時に硬貨を変えるのではなく、自動販売機を改良する方向で偽造通貨に対応しておけば今回の偽造事件はなかった可能性がある。改良された自動販売機をだますのは今よりずっと難しくなっていたはずだ。
さて今回はどういう対応をとるのだろうか。聞くところによると500円硬貨というのは一般に流通している硬貨では世界で一番額面が高いという話だ。だから狙われるのだろう。
私はこの機会に500円札を再び流通させてほしい。1000円札と判別しずらいという理由で500円札が使われなくなったと聞いている。今回1000円札も新しくなったことだし、500円札を再び流通させるのも悪くないと思う。

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February 02, 2005

一太郎特許判決で損をしたのは

代表的なワープロソフトの一太郎に販売差し止め判決がでたというので、新聞は一面扱いだった。日ごろ技術関係に関心が薄いメディアもワープロということで関心が湧いたのかもしれない。
問題の特許[出願番号H01-283583]の「特許請求の範囲」を読んでみたのだが、かなり狭い範囲の請求のようだ。詳細な説明で「本発明は、日本語DTPやワープロ等の機能説明を行う情報処理装置に関するものである。」と述べいてるようにワープロで使うことだけ考えて書かれたようだ。防衛特許的な要素が強い出願だったのではないかと推測する。
実際私の判断では技術的な新規性というものは感じられない。もともと物理的なキーを使ったものは実現されていた機能だからだ。何か決められたキー(ctrlやFnなど)を押した後に押されたキーはその意味が変わるというものだ。この特許はそれをキーの変わりに「アイコン」しているだけだ。さらに実現できる機能が機能説明(ヘルプと言ってもよいだろう)だけときている。技術的に新しいものがあるとはとても思えない。
じゃあぜんぜんダメなのかというと、アイディアとしては今まで物理的なキーでしか実現されていなかったものをアイコンという別のもので実現するという部分については新しいと感じる。今では当たり前なのだが、これが出願されたのが1989年という時期を考えると当時はなかったアイディアの可能性は十分にある。
しかし、私個人の感覚では高度な技術的思想の創作とはとても思えない。スラッシュドットジャパンの議論に動作環境によって表示が絵になったり文字になったりするソフトはどうなるのだと言うものがあったが、これなど実装技術としての新規性のなさを言い当てていると思う。

報道やネット上の書きこみを見ていると、裁判に勝った松下電器の方が損しているような気がしてならないのだがどうだろう。日本人って判官びいきだから自分より大きくて強い相手でないと、勝ってもイメージ上がらないんじゃないかなあ。

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February 01, 2005

ソフトウエア危機と開発手法

ソフトウエア開発の世界(ITとかシステム開発とか言ってもいいだろう)では生産性と品質がずっと問題になっている。ソフト開発の多くの部分が人手に頼っているためだろうと私は考えている。それで、ただ生産性を上げろとか品質を上げろとか言ってもあまり効果がないので、いろんな手法やツールを考えるわけだ。

古いところでは構造化設計、それが新しくなるとオブジェクト指向設計、これらはやろうとしていることの基本は変わらないと思う。後から出てきたオブジェクト指向はいろんなツールととも紹介されることが多いように感じる。便利な道具があればそれだけ取り組みやすいからね。
開発のやり方も重要になるわけでCMMなんてその組織の成熟度にあわせて対策を行って成熟度を上げていこうというものもある。これは成熟度以前の組織には無力という欠点があるのだが、そんな組織に限って銀の弾丸だとばかりにありがたがったりする。最近はXPなんてものが出てきて、CMMはダメとか言っているとか言っていないとか、前にあるものを悪く言って自分をよく見せようとするのは古典的手法なんだけど、どうせなら売り込みの手法も新しく開発してほしかったものだ。

私は新しいもの好きなので、新たな手法が登場するとすぐに取り入れようとしていた。しかし、そんなことを何年も続けていてあることに気が付いた。それは、いろんな手法やツールを取り入れるには、その組織がそられを学んで実行できるだけのレベルに達していないといけないということだ。
手法やツールを学べるレベルにないのに取り入れようとしても上手くいかない。手法やツールの前にやらなくてはいけないことがあることに気づいたわけだ。

どこかで、ツールってものは増幅器だ。元が小さいとちょっとばかり増幅しても大きくならない。という意味の文章を読んだことがある。組織のレベルが低いと手法やツールが効果的に働かないという私の経験則と一致して、他にも同じこと感じている人がいるのだと喜んだものだ。でも、それって、いろんなところで同じ問題に遭遇しているということでしょう。ソフトウエア開発の現場ってどこも同じか。

結局問題はソフトウエア開発にあるのではなくて、ソフトウエア開発業界の組織のあり方や、その構成員の扱いかたにあるように感じる。業界全体の雰囲気を変えるには、地道な啓蒙活動しかないと思うので、画期的な話は全体の改善には役に立たない考えるこのごろだ。

デザインパターンがSOAになったところで、ブラウン管がLCDやPDPに変わるのと同じで映るテレビ番組の内容が良くなるわけではないということだ。

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