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August 26, 2005

高校野球(スポーツ)はそんなに特別か

駒大苫小牧高校の野球部長の暴力が問題になている。高野連もさぞ頭がいたいことだろう。なんといっても今年の夏の甲子園優勝校で57年ぶりの夏の大会連覇をしているから。

しかし、暴力事件がおきたのは夏の甲子園大会の開会式の次の日、まだ駒大苫小牧高校の試合は行われていない、きっとすぐに報告していれば出場辞退は確実だっただろう。事実、明徳義塾高校がレギュラー部員の他部員への暴力と、部員の喫煙事件で出場辞退に追い込まれている。

私は、体罰完全否定派ではない。運動部のようなところでは、指導にある程度の体罰は必要だと考えている。それがいやなら運動部などに入らなければいい。しかし、今回の事件はちょっと体罰というレベルのものではなくて、純粋に暴力を振るったといわれても仕方がない状況のようだ。本人はそれほどひどくないと主張しているようだが。ただ私が問題だと思っていることは、事実を隠したことだ。それも大会に出場するためにだ。これ以上卑怯な行為があるのだろうか。スポーツマンシップに外れた行為だ。その割には、そのような批判は聞こえてこない。マスコミは、非常に穏便な報道をしている。もっとひどく言えば、そのような卑怯者の部長が率いているチームが正々堂々と戦ったのか疑問だ。連覇もなにか卑劣なことをして成し遂げたのかもしれない。そう取られても仕方がないだろう。

以前どこかの野球の名門校の野球部での暴力事件の時にも、似たような印象を受けたが。名門校の野球部員とかその関係者たちの、自分たちは特別だという感覚が鼻につく。周りがちらほらすることもあるだろう。また、運動部内部での激しい競争に勝ち抜いたことでエリート意識が強くなるのだろう。しかし、高校野球はあくまで教育の一部のはずだ。敗者への思いやりもちゃんと教えてほしいものだ。競争に勝ち抜いたものこそ弱者への思いやりを持ってもらいたい。しかし、そのような教育がなされるどころか、自分達が特別の存在だと勘違いしてしまう教育がされているのだ。

以前にも似たことを書いたが、これがゲーム系のクラブとかだったら、そらみたことか、青少年に悪影響があるから、禁止にしろとかいう論調がおきるだろう。高校野球部員の暴力事件はぜんぜんなくなる気配はない。つまり今の多くの高校野球部、とくに甲子園にでてくるような名門校は、部員ら青少年に悪影響をおよぼしているといえないだろうか。どこぞの知事がろくに調査もしないで、ゲームを青少年に悪影響があるといって子供への販売を禁止にしたが、一部とはいえ、はっきり悪影響の証拠がある高校野球は禁止にしないのだろうか。

部屋にこもってやる趣味はダメで、外でするスポーツはOKというのはあまりにステレオタイプ対応だ。弊害がはっきりあるならあるとして、厳罰をもって望むべきだろう。

今回の駒大苫小牧高校の件暴力事件を理由にも優勝取り消しは即刻行うべきだった。いまからでも遅くはない、優勝は取り消すべきだろう。実際に明徳義塾高校の県大会の優勝を取り消されている。全国大会でも同じはずだ。そうでないと、都合の悪いことを隠してでも結果をだせば、後からなら許されるとなると、教育上好ましくない上に、きっとまねする輩がでてくるだろう。

さらに、事件を隠した件での罰則も必要だと考える。すくなくと3年間の対外試合禁止と大会への出場禁止は必要だと考える。今の高校野球の名門校はそれ自体が商売になっている。3年程度出場できないようにすれば新人発掘の面からライバル校との差は決定的に開くことになる。そのくらいの罰則がないとおそらく暴力体質は改まらないだろう。

まあ、高野連も高校野球を商売にしているようなものだし、高校野球で生活している組織も沢山あるので、どうしても甘くなるのだろう。しかし、内容が悪いとサッカーなどのライバル達が成長してきて、商売自体なりたたなくなってしまうだろう。すでにプロ野球がそうなりつつある。なかなか内からは変わらないだおうが、早く気がついてほしいものだ。

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August 15, 2005

戦後60年を機に第二次世界大戦を考えてみる

首相は行く行くと言いながら今年も15日にどこぞの神社に参拝はしないようだ。私は政治家が神社のような宗教法人に公式参拝することは政教分離に反すると思うので反対だ。しかし、内政問題に外国からとやかく言われる筋合いのものでもないと感じている。

今年は第二次世界大戦で日本が負けてから60年の節目ということでいろいろな記念番組なんか放送されているようだ。そこで私もちょっと日本が第二次世界大戦を戦い、負けたことを考えてみたいと思う。

最初に前提として、戦争は外交手段の一つであることを確認しておく、つまり、国際法的には戦争をすることは認めれているわけだ。このあたり欧米人は随分野蛮な決まりを作る人達だと感じる。さて、軍隊とか軍人とかいうものは、この外交手段を行使したり、された時に対抗するために存在していると考える。

第二次世界大戦で日本のために戦った人達はどんな人達だろうか。職業軍人の他に召集令状(いわゆる赤紙は臨時召集令状で通常の召集令状とは違うらしい。ここでは両方をひっくるめている)で強制的に軍隊につれてこられた人達もいる。それだけだろうか、実は軍事工場で武器を作っている人達もその仲間に入っている。根拠、それはそれらの業務をこなしている時に敵の攻撃などによって死亡したり、怪我を負ったときに国が保障しているからだ(14日放送のNHKの番組によると死亡者は遺族援護法というものが法的根拠らしい)。さて、それでは、その他の人達はどうなんだろう。いってみれば日本全体の経済システムを支えていた人達だ。第二次世界大戦ではそういう人達、いわゆる一般市民が多く戦争の犠牲となった。その人達は日本のために戦っていないのだろうか。そんなことはないはずだ。食糧生産の例を見てみても戦うために不可欠な活動をしていた人達が大半だったはずだ。

現実を見るとその人達は日本のために戦ったとはみなされていないようだ。私は妙な話だと感じるのだが、国としてはあまり日本ののために戦って犠牲になった人は増やしたくないのだろう。

理由として単純に思いつくのが、保障の問題だ。死亡時の遺族年金の例を考えてみてもすぐに想像がつく、空襲で死んだ人は何十万人もいるわけだから、保障のためのお金を遺族に払っていたら大変な額になってしまう。まあ、軍人としてなくなった人も何十万人もいるので、かなりの額が国家予算から支出されているはずだ。あまり報道はされていないので、私は実態はよく知らない。

親の世代の話を聞くと、結構な額がもらえるらしい、しかし、不思議なことにほとんどの例外なしに、保障をもらっていることを隠す傾向があるそうだ。この当たりも実際に遺族年金などを受け取っている人達が自分達だけもらうことが公平ではないと感じている証拠だろう。つまり、他にも日本の為に命を落とした人達がいると感じているのだろう。

私が不公平に感じるのはもう一つある。敗戦により責任がある人達の方が多くの保障を受けていることだ。つまり、犠牲を多く出す命令を出したり負ける作戦を考えた人達だ。戦争に負けたんだんから、一兵卒はともかく、作戦遂行にあたった人達に責任はあるはずだ。命を落としたのだから、保障するなとは言わないが、負けたんだから一兵卒と同じでいいと思う。

ドイツなどは旧ナチス党員への責任追求は厳しいと聞くが、死亡した人への扱いはどうなんだろう。だれか知っていたら教えてほしい。

日本はどうも責任をはっきりさせるということが苦手だ。戦争のような重大事でも変わらない。でもそこをはっきりさせておかないと、また、無責任な命令や作戦で、回りに迷惑をおよぼす人達が登場するだろう。戦争なら迷惑は死と直結している。なんかあんまり第二次世界対戦を語っていないみたいだけど、責任の所在をハッキリさせること、原因を特定することは、同じ過ちをくり返さない為には大切なことのはずだ。念のために言っておくと過ちとは、戦争に負けたことだ。もちろん理想は戦わずして勝つことであるのは言うまでもない。

PS.
今日(15日)の新聞のコラムで知ったのですが、8月15日は国際的には何の意味もない日だそうです。日本の降伏は9月2日の戦艦ミズリー上での調印で正式になったので敗戦日は9月2日だろうとは思っていました。しかし、今日の記事で知ったのはポツダム宣言の受諾が8月14日だったことです。ずっと15日だと思っていました。1939年から15日に戦没者慰霊の行事は行われていたそうですし、玉音放送が15日ということでこの日が記念日のように扱われているようです。記事によると鈴木内閣の時に根拠となる法律は作られているそうです。コラムの著者は日本のお盆の風習から戦没者慰霊が行われていたことが、この日が記念日となった原因ではないかと推測しておりました。なかなか面白い見方だと思います。

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August 10, 2005

スーパーヒーローとオタク文化

夏休みに入って時間ができたので、買ってあった「Mr. インクレディブル」のDVDを見る。モンズターズインクまでは劇場に見に行っていたPIXAR作品だがこのその後DVDが出てからでもいいかと考えを変えたのだが、この「Mr. インクレディブル」は劇場に見に行かなかったことを少し後悔したできだった。非常に面白かった。前作の「ファインディング・ニモ」よりずっとよかった。

出てくるスーパーヒーローがマーヴェル・コミック(Marvel Comics)のヒーロー達がモデルだろうと思われる。だが、アメリカンコミックに詳しくないので個別にだれがだれに対応しているのかはすぐには分らなかったが、最近はネットで調べればだいたいは分る。DVDには本編には登場すらしない設定上のヒーローリストなどもついている。私はインクレディブル夫人の「イラスティガール」の伸び縮みする体をみて、モデルは麦わら帽子ルフィかと思ったのですが、調べると「ファンタスティック・フォー」という作品のMr.ファンタスティックがゴム人間だったようで、日本では「宇宙忍者ゴームズ」という題名でかつてアニメがTV放映されていたようだ。

「Mr. インクレディブル」の中ではスーパーヒーロー達が訴えられて、それが引き金でインクレディブル氏は平凡な生活をするようになるのだが、日本のアニメ(特撮番組も)においてはかなり前から正義と悪を単純にわけない設定が一般化している。「Mr. インクレディブル」の監督は訴えられる話を入れることでスーパーヒーローを世俗的にできると言っていたが、日本ではかなり前からそうだったわけだ。

私はこのあたりが、日本のアニメの優れているところだと思っている。アメリカのアニメはあくまで子供対象だ。そのことに甘えて子供騙しの内容になってしまうことが多いようだ。しかし、日本では早い段階から大人の鑑賞耐えるものを目指していた。大人のファンが多いこととは鶏と卵の関係でどちらが先かは私は良く分らない。しかし、結果として大人のファンを満足させつつ子供も楽しめる作品が多く作られるようになったのは間違いないだろう。

最近、どこかのシンクタンクがアニメなどのオタク文化の経済的効果の大きさを発表して話題をよんだりしている。その影響か輸出競争力があるアニメなどに注目があつまっている。まあ、今ではオタクだがちょっと前ならマニア、その前はなんとよばれたか。昔からマニアはいたわけで、鉄道オタクなどは長い歴史をもっていて、今でも大きな勢力だし、経済的な影響もかなりあると思われる。アニメやキャラクターオタクだけが、特別ではないはずだ。なにごとにも流行はあるのでそこに注目が集まるのは仕方がないことかも知れない。

大体趣味が関係した経済行為はみなマニアックなところがある。車を買うにも経済的合理性より購入者の趣味が優先されることの方が多いだろう。サッカーや野球のファンもオタクとしか言えないような人達が沢山いる。
良く調べてみたら、日本の経済はオタク文化にささえられていた、なんてことになるかもしれないな。

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